本に埋もれる子ども

「私の疑問に答えたのは多くの場合、学校や先生では無かった」
と書きましたが、それも仕方のないことです。
私自身が当時の疑問をきちんと
「言語化」できなかったのですから。(*1)

「0は何も無いという意味なのに何故0と書くのだろう」
「『○○がある』と『○○が無い』では
どちらの方の証明が難しいだろう」
などの疑問は今でこそ皆さんにお伝えできますが、
当時は頭の中で「モヤモヤ」とした存在でした。

小学生のある時
「『言葉』を手掛かりに『意味』を調べる辞書ではなく、
『意味』を手掛かりに『言葉』を調べる辞書は存在しないだろうか」
と考えたことがあります。
それだけ自分の中に浮かぶ「疑問」や「モヤモヤ感」
「ウキウキ感」など、いろいろな概念や感覚を
言葉にできずにいたのでしょう。

内田樹氏は
「子どもの言語状況は『言葉があまって思いが足りない』
というかたちで構造化されるべき」だと言います。

「美しく、響きがよく、ロジカルな『他者の言葉』に
集中豪雨的にさらされるという経験が
国語教育の中心であるべき」(*2)
だと述べています。

この文章を読んだ時に「なるほど」と思いました。

私は小学生の時に多くの本を読んだつもりでいましたが、
それでも必要な言葉は圧倒的に不足していたのだと思います。
意味が明確で無くても良いから、最初に膨大な量の言葉を学び、
頭の中の言葉の在庫を増やす。
そして、あとから「この言葉はこういう時に使う言葉なのだ」
と実感すれば良いということだと思います。
全く同感です。

あれこれ夢想していた小学校時代ですが、
学校の勉強もそれなりに「こなして」いました。
今思うと、勉強する上での「何か重大な前提が欠けている」
という違和感はありました(勿論当時は言語化できていません)が、
学習内容に対しても少なからず、
「なるほど」という納得感を持って勉強していたと思います。

ただ、中学生になると、
学校での勉強にも多少支障が出てくるようになりました。
(続く)

(*1)
書籍が答えてくれたのは、私の疑問の一部です。
例えば、「万や億の上の単位は何だろう」という疑問が、
「たまたま算数事典のコラムに書いてあったので解決した」とか、
「自分で深く疑問に思う」以前に「雨は何故降るのか」という
解説を読んで解決したという類のものです。

(*2)
内田樹『街場の教育論』ミシマ社(2008年)

9つの誤解:間違いだらけの“子育て”