学生:勉強

〜「学習の方法」に一つのスパイスを〜

「勉強ができても社会に出てから何の役にも立たない」
これは、社会に出た学生が受ける最初の洗礼の一つです。

多くの場合、社会人力と学生時代の能力は
必ずしもイコールで結ばれないと考えられています。

当然ながら、学校の成績や偏差値が
社会人としての能力に直結するかというと、
そうでないことも多いのが現状です。
それでは、学生時代に学ぶことは社会に出て無意味なのでしょうか。
教育に携わる立場からすれば、学生時代の偏差値の競争以外に、
社会人の前段階として何も学んでいないとすれば、
少し寂しい気がします。
今回はこの問題を紐解いてみたいと思います。

まず、この問題を考えるにあたり、
教育の意義を再確認してみましょう。

教育の意義とは、先人が発見した知恵を社会への恩恵として
次世代に語り継ぐことです。
語り継ぐことによって社会に貢献する新たな発見者を育成していく。
このサイクルを繰り返すことで、
人間の文化や技術は成長してきました。
この様な性質上、教育は「受け身」になってしまいがちなのは
否めません。

そして、教育を通じて広く先人が築いて来た知恵を
伝播したところで、社会に大きな影響を与える程の
新しい発見者は一握りしか生まれないのが現状です。
こう見ると、やはり教育は一部の興味のある人にしか
意味の無いものと捉えられてしまっても仕方ない様に聞こえます。

しかし、僕はこの現状も教育者と学習者が
ほんの少し意識を変えるだけで全く違う側面を
見せてくると思っています。
具体的には何をすれば良いか。それが「学問」です。

「学問」と聞くと、お偉い学者が頭をひねらせて
延々と専門知識を駆使しながら持論を展開していく。
そんなイメージをお持ちではないでしょうか。
確かにそういう側面があるのも事実ですし、
その結果、多くの人に影響する大発見が起こることも事実です。
しかし、僕は「学問」の定義をもっと身近に広い意味で
捉えてしまえばいいのではないかと考えています。
「学問」について、僕なりの定義を述べましょう。

「学問」とは、獲得した知識を用いて新たな発見をすることです。

そして学問が獲得した知識を用いて新たな発見をすることであれば、
今ある知識で考えることこそ学問です。
これはどういうことか。
何ら難しい専門知識が無くても、
誰にでも学問は始めることができるということです。
文字通り「学」んだことを「問」うことなんです。
教育で獲得した知識について、自分なりに思いを馳せる、
それだけのことです。
ただ、知識を獲得することだけに没頭してしまえば、
「使用方法」に磨きはかかりません。
例えるならば、とても良いキッチン用品を
どれだけ多く用意をしても、料理は上手くならない。
それだったら、今ある食材で何かしら自分で作ってみる。
恐らく今の教育現場にこの意識が足りないから、
冒頭の様な寂しい現状が嘆かれているのでしょう。

もしも、今より少しでも「教育者」が「教育」の定義に
「学問への扉を開く」という意識を持ち、
今より少しでも「学習者」が「学習」が「学びを問うため」に
存在するという認識が持てれば、
現状は大きく変わってくると思います。

僕個人の感想を言えば、学業で優秀な成績を納めた人たちは、
この様に楽しみながら「学問」を進めている人も多くいて、
仕事においても優秀な人は少なくないと思っています。
そして、彼らはただ単純に「偏差値が高い」から
仕事ができるのでは当然無く、
日頃から社会に出る為の準備を学業の中で
見いだしていたということだと思います。
だからこそ、その意識を一人でも多くの人が認識すれば、
学生時代に、より意義のある時間を過ごせる人が増えると考え、
僕は教壇に立っています。

さて、それでは「学問を意識する」となぜ社会に出ても
高いパフォーマンスを打ち出せるのでしょうか。
次回は「学問」の性質にもう少し深くふれながら、
「学問」と「仕事」の関係についてお話ししたいと思います。

それでは、良い1日を!

 

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