曽野綾子氏は
「人は同じ外的刺激を受けても予想されるのと同じ結果は生まない」
と言います。
人の個性は千差万別ですから
刺激に対する反応が異なるのは当然のことだと思います。
また、教育における「同じ刺激」というのも大変難しい話です。
仮に同じ親のもとで教育されたとしても
「同じ刺激」という訳にはいきません。
私には兄と妹がいます。
父親は怒ると体罰も辞さない人でしたが、
兄はたっぷりその洗礼を受けました。
ところが私には、兄が「何をした時にどのように叩かれるか」
ということを観察する機会があったのです。
先発投手に比べてリリーフには
相手の様子を伺う機会があるのです(笑)
だから私は悪さをするにしても「さじ加減」を知っていますから、
兄ほど叱られずに済みました。
父親も次男に対しては「叩かずとも叩くのと同様の効果」
がありますから、脅すだけで済むようになります。
客観的には「異なった刺激」に映り、
兄の立場では誠に面白くない話です。
ところが3番目の妹になると、年齢差もあり、
兄の被害状況を知りませんから、
また同じようなことで叱られたりするのです。
まるで、戦争が終わってしばらく平和が続くと
戦争の時の教訓が活かされなくなる歴史と同じですね(笑)
逆に親に対してずっと「同じ刺激」を続けろというのも酷な話です。
年齢とともに体力・気力が衰えますから、
若い頃に気が張って教育熱心だった人が甘くなったりします。
(客観的には体罰に頼らない
「良い指導」になることもあります(笑))
豪速球投手が体力の低下とともに
技の投球をマスターするといったところでしょうか。
あるいは「体罰でやってもダメだ」とか
「体罰はマズい」と学習する可能性もあります。
親の方も成長するのです。
成長後も、昔のように「誤った指導を続けろ」
というのも酷でしょう。
教育を受ける側にしてみれば、運・不運の違いとも言えますが、
教育とはそういう、タイミングとか出会いという要素に
満ちているものでは無いでしょうか。
(続く)
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