マイクを持つ女の子

作家の曽野綾子氏は
「人を改変する力は多分に偶然によるもの」
と指摘されています。
確かに自分の人生を振り返っても、
何かの影響を受けて自分自身が変わる時、
そこには「偶然」があったような気がします。

中学生の頃、いろいろとコンプレックスに悩んでいた時、
たまたま書店で手に取った本(*1)が、
その後の人生の「救い」となりました。
悩んでいたからこそ、
その本の一文一文が心にしみたのだと思っています。

また、その頃、歌手の松山千春さんの歌にも救われましたが
同様の理由で、歌詞の一つ一つが座右の銘に
なっていったのだと思います。

中学、高校時代の英語の授業内容には
根本的な疑問がたくさんありましたが、
その質問にまともに答えてくれる教師はおらず、
自分自身が間違っているのかとも思いました。
しかし、そのように悩んでいたからこそ、
予備校での英語の授業に引き込まれたのでしょう。
6年間の疑問が氷解する思いでした。

大学時代の恩師の退官の際に最終講義を聴きに行きました。
正直なところ大学時代は退屈な授業だと感じていたのでしたが、
最終講義の時には面白くてたまりませんでした。
大学時代は講義を受ける側の知識と能力が不足していて、
講義の面白さが実感できなかったのだと思います。

結婚して家庭を持つようになり、
さだまさしさんの歌詞に惹かれるようになりました。
昔も聴いていたのですが、それなりに人生経験を積んで、
やっと実感を伴って歌詞の意味を理解できるようになった
ということでしょうか。

これらの経験から言えることは、
人が変わる時はそのための状況が整っていることが
必要だということです。

例えるならば、受け手の側の土壌が不十分でも花は咲かないし、
土壌が十分でもタイミング良く種が蒔かれねば
やはり花は咲かないということです。

つまり、人が変わる時、
そこには「邂逅(かいこう=思いがけなく出会うこと)」
があるのだということです。
曽野氏のいう「偶然」とはそういうことでは無いでしょうか。
(続く)

(*1)
邑井操『若者たちへ どんな生きがいを求めるか』
大和書房(1979年)

 

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