学び続ける理由を考えるために、
インドや日本の仏教の展開を概観してみたいと思います。
少し回り道をしますがお付き合い下さい。
元々のお釈迦様の時代の仏教は
「少数の出家修行者が厳しい修行を経て悟りを開く(*1)」
ものでした。
しかし、お釈迦様没後、数百年経って、
「誰でも仏になれる」という大乗仏教の考え方が生まれます。
日本に伝わったのはこの大乗仏教です。
しかし、大乗仏教とはいっても、奈良の仏教勢力は
「人々には生まれつき仏になる能力に違いがある」と考えました。
それに対して
「誰でも同じように悟りに至る素質(*2)がある」
と考えたのが天台宗を開いた最澄です。
両者の論争を経て「誰でも仏になれる」という考え方が
日本の仏教の主流となっていきます。
ところが、平安時代末、この
「誰でも仏になれる=悟りを開くことができる」
という考え方がさらに変化します。
全ての人に同じように悟りを開く「可能性がある」という考え方が、
人は「既に現実的に悟りを開いている」という意味に変わります。
そしてその変化は「既に悟りを開いている」のなら、
何もわざわざ「修行などする必要は無い(*3)」
という結論になってしまったのです。
一度ここまでの展開を整理してみましょう。
「一部の修行者だけが仏になれる」⇒「全ての者が仏になれる(大乗仏教)
「仏になる能力には個人差がある」⇒「誰にでも同様に仏性がある」(天台宗)
「仏になる可能性がある」⇒「現実に既に仏である」(本覚思想)
実は、鎌倉新仏教が登場する頃の仏教界は、
本覚思想に代表されるような現実肯定的な傾向が強まり、
修行を不要と見なす状況となっていたのです。
簡単に言えば仏教界が「堕落」とも言える様相を呈していたのです。
そのような状況を背景とし、
鎌倉新仏教の開祖や奈良の仏教界の改革運動の担い手は、
「どうしたら修行などの実践を重視するような、
宗教本来の在り方を回復できるか」
という課題に取り組むことになったのです。(続く)
(*1)
悟りの最終段階を「仏陀=仏」と言いますので、
以下、「悟る」ことを「仏になる」とも表現します。
(*2)
この素質を仏性(ぶっしょう)と言います。
(*3)
この考え方を「本覚(ほんがく)思想」と言います。
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