幼稚園の教室の壁に50音表が貼ってありました。
「あひる」「いぬ」「うさぎ」などの
絵・名前とともに50音が示されています。
それを順に読んでいった私は、
最後が「きりん」になっていることに疑問を覚えました。
他の言葉は全部1文字目に当該の50音がきているのに、
なぜ最後だけ1文字目ではないのだろうと。
先生は「日本語には『ん』で始まる言葉は無いのよ」
と優しく説明してくれましたが釈然としませんでした。
なぜなら、秋田弁では同意する時に
「んだ、んだ」などと言うからです。
「あると思うけど。」と心の中でつぶやいていました。
幼稚園のホールで前ならえをしながら
「4人のお友達の真ん中は誰だろう、
真ん中と半分はどう違うんだろう。」
と考えていたことがありました。
何故、そんな風に考えたかというと、
先生が「真ん中から2グループに分かれて下さい」
という場合と「半分ずつに分かれて下さい」
という場合、結果が同じになるからです。
指示の言葉として使われた「真ん中と半分」が
類似の概念であると理解したのでしょう。
そして「どうも真ん中と半分は苦手だなあ。」
と感じていました。
偶数・奇数の概念を知らないころの話です。
通っていたのがキリスト幼稚園なので
よくイエス様の紙芝居を見ました。
色々な話がありましたが、「目から鱗が落ちる話(*1)」など、
総じて「奇蹟」のような話が多いので
イエス様のお話は「神話のような作り話」だと思っていました。
ところがある時、自宅の本棚の「偉人シリーズ」の中に
「イエス様」があるのを見つけて大変驚きました。
「偉人本」というのは昔のえらい人の「本当」の話が
書いてあるということは既に理解していたからです。
このように幼稚園の頃から色々な疑問が次々と沸いてきましたが、
それを解決する術を持ち得ませんでした。
自分の疑問内容を大人に分かるような文章にする
言語能力はまだありませんでした(*2)し、
自分で調べる方法も知らなかったのです。(続く)
(*1)
目から鱗が落ちる」ということわざがありますが、
出典は『新約聖書』だそうです。
目が見えなくなったサウロ(後のパウロ)のために
アナニアという人が祈ったら目が見えるようになったという話です。
私は幼稚園の紙芝居で知りました。
(*2)
幼稚園時代の疑問をその当時
言語化できていた訳ではありません。
当時の「気持ち」を覚えている私が
後に「言語化」しているだけです。
カテゴリーや各種特集ページからお越しの方は、ブラウザの「戻る」ボタンでお戻りください。