親子:会話

母親の思い出話の中に、「私が幼稚園から帰ると、
その日のできごとを一生懸命話していた」というものがあります。
兄妹の中で一番おしゃべりな私の素地は
この母親との会話で培われたものかも知れません。
さらに、現在人前で「話す」ことを生業としているのは、
母親のおかげだと言えるでしょう。

哲学者の鷲田清一先生は、
「話すためにはまず聴かれなければならない。
話はつねにだれかに向けてなされるものだから」(*1)
とおっしゃっています。

授業をしているとそのことを実感します。
一生懸命聴いてくれる生徒が多い教室では次々と言葉が出てきて、
アドリブで面白いアイデアさえ出てくるのに、
反応が薄いクラスではどうも歯切れが悪くなります。
ささいなレスポンスによって状況は驚くほど異なります。
最前列で「なるほど」という顔をしながら頷いている生徒が
一人いるだけで授業の「調子」が天と地ほど変わるのです。
鷲田先生のおっしゃる通り、
一生懸命耳を傾けてくれる人がいて初めて
言葉は「紡ぎ出される」のでしょう。

私が幼稚園児の時、おそらく母親は一生懸命
私の言葉に耳を傾けてくれていたのだと思います。
特別気の利いたことを言った訳でも、
教育ママだった訳でもありません。
ただただ子どもが好きで、
ニコニコしながら息子の話を聴いてくれたのだと思います。
おかげで、いろいろな言葉が
どんどん紡ぎ出されていったのだと想像しています。
大人が理性を持ってコントロールしようとしても、
「確かに聴いてもらっている」という実感の有無で
「調子」が変わるのです。
幼稚園児においては一層顕著な差が出ると思います。

私は子どもの教育において、
母語の力の鍛錬と多種多様な経験を重視しています。
前者のために絵本の読み聞かせをしたり、
大人が語りかけたりすることも重要だと思いますが、
まずは「子どもの発する言葉に耳を傾けること」が
大切だと考えています。

それは取りも直さず、幼稚園児の時に
母親が私にしてくれたことなのです。

*1 鷲田清一『「聴く」ことの力』
阪急コミュニケーションズ(1999年)

 

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