夜の月前回のコラムでは、国語を学問の礎であると定義づけた上で、
国語という科目の特徴的な性質を3つ定義づけました。
今回はその内の1つである「国語とは読解を学ぶ科目である」
という点について紐解いていきましょう。

読解とは何か。

まずは読解とは何かを考えてみたいとおもいます。
読解とは読み解くと書いて読解ですが、
この場合の「解く」とは「問題を解く」という意味ではありません。
「読んで解る(わかる)」という意味です。
つまり、読解をするという行為は、「筆者」もしくは「登場人物」が言いたいことを、
「文章」という媒介を通して解ることであると言えます。
実は、これ、前々回までのコラムのテーマとやっていることがそっくりじゃないでしょうか。

そう、読解という行為の中に「コミュニケーション」
で必要だった「ホスピタリティ」が含まれているのです。
読み手は限定された情報の中で相手が言いたいことを
理解しようとし、書き手もまた、
限定された情報の中で自分を理解してもらえようと
努めるわけですから、立派なコミュニケーションですね。

そして、毎度のことながら申し上げるように
「知り得た情報から最大限の想像を広げていく行為」
が学問だとすれば、読解はそもそもその行為に
「学問を要求している」と表現することができるわけです。
その為の練習が国語なんですね。

また、文章を通じて「筆者の言いたい事」を紐解いて後、
更に「筆者はなぜその文章を書いたのか」
もしくは「なぜその表現を使ったのか」
まで紐解いていくと面白いです。
例えば、文豪の夏目漱石は学校の先生をしている時、
生徒に「I love you.」を「我、君を愛す」と訳しながらも
「月が奇麗ですね」と言えば通じるよ、
と生徒に教えていたという逸話があります。
漱石に魅力があり過ぎて日頃から
「月がキレイ」といえば女性に好意を持たれていたのか、
相手が愛し過ぎて相手の顔を直視できず
眺めていた月について言及したもどかしさを悟って欲しい
という想いからか、はたまた、単なる思いつきか・・・など。
想像を広げたらキリがありませんが、
こういう行為も物凄いコミュニケーションの練習になりませんか?
学問が実学に近づく瞬間を垣間見える気がします。

話が二転三転してしまいましたが、
学問が妄想の扉を最大限開いて、
既存の情報から新たな想像を生み出していく作業だとすれば、
間違いなく国語は学問の礎足りうる
十分な理由があるということです。

次回も引き続き、国語の魅力について迫ります。
それでは、今日も良い1日を!

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