国語は全ての学問の礎である、
という立場で国語という科目について考えを述べていますが、いかがでしょうか。
ご意見やご質問があれば何なりとお申し付け下さいね。
今回は、「国語は母国語を学ぶ科目」
という観点から重要性を紹介したいと思います。
僕がこのことについて触れたいのは、実は2つの意味があります。
まず、1つ目の意味から参りましょう。
ご存知の通り学問の媒体となりうるのは、多くの場合、書物です。
そして、殆どの場合、人は母国語で書かれている本を読みます。
読解の際には、前回述べた読解力の他に、母国語の文章の紐解き方に始まり、
語彙の多さといった知識が必要となります。
特に、語彙の多さはともすれば軽視されがちですが、
これが読解力に大きな差を生みます。
極端な例ですが、
例えばここにサンスクリット語の新聞があるとしましょう。
当然ながら読めません。
理由は簡単。
単語が分からないからです。
実際、全ての単語が分かれば文法など
一切分からなくても比較的読めますよ。
ちょっと試してみましょうか。
辞書を使って日本語訳をとったと仮定して
以下の文章を読んでみて下さい。
僕 ディズニーランド キャラメルポップコーン 買う 娘 喜び
こんな具合に単語が並んでいたらどうでしょう。
何となく娘にディズニーランドで
ポップコーン買って喜んだのではないか、
と予測はつくはずです。
こういう意味で語彙の能力は読解するのに
侮れない重要なファクターです。
しかも学年が上がるほど他の教科の教科書に
使われる語彙が増えてきますので、
語彙が少なければ本当は国語ができないだけなのに、
その科目そのものが難しいという勘違いを引き起こします。
こちらも例を挙げてみましょう。
訳が分からなくなるので今度は「助詞」をつけて表現します。
形而上学は、その抽象性からともすれば
非常に恣意的な解釈で捉えられうる。
とてもとても難しそうですが、
形而上学という名の偉い学者が考えたことは、
ひじょうにあいまいでフワフワした内容を含んでいるから、
勝手気ままに理解されちゃうこともあるんだよ、
と読み取ることができます。
しかし、そもそも語彙自体が少なければ、
内容として面白いことを伝えている文章も、
使用されている語句が難しいという理由で、
その面白さに気づかずに興味を失ってしまう事が多々あります。
こういう点からも国語の重要性を
再確認するべきだと思っています。
もう1つの「母国語」を学ぶ重要性ですが、
実は「外国語」を学ぶ際に「母国語」が
非常に大きな力を発揮するのです。
こちらについてはいつか英語のコラムを書く際に
詳しく説明しますが、一つ簡単な例を挙げてみましょう。
愛する人に愛を囁くときに言う言葉を
日本語と英語で比較します。
日本語 : 愛しているよ
英 語 : I love you.
明らかに違う点がありますね。
そう。日本語では主語が無いんです。
これを省略と捉えるか、日本語にはそもそも主語が無いと捉えるか、
学説によって異なりますが、とにかく日本語には主語がない。
しかし、英語はどうだろうか。
主語どころか、誰が好きなのかまで明確に表現しています。
英語では「I love」で終わることは許されません。
これは文法体系の違いで説明がつき、
この差を比較することで外国語の習得が非常に早くなるのですが、
日本ではあまり差異を捉えていく学習は盛んではありません。
これはそもそも日本人が持つ日本語に対する意識が
希薄であるのも理由の一つとも考えられるでしょう。
この様に、他科目を学習する際に国語が重要である点は
ご理解頂けたと思います。
次回は、国語という科目の性質上、
多くの文献に触れるわけですが、
このことがもたらす効果について述べていきたいと思います。
それでは今日も良い1日を!
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